2019/05/01

 

平成から令和になった。

 

昨日は朝おきて家族と話した。

それから、箱根へ行くことになった。

 

ロマンスカーのチケットは完売だった。

各駅停車にのり、一旦途中駅で下車、そこから電車にのり、また下車して乗り換え、そしてようやく箱根湯本へ着いた。

やはりロマンスカーは楽だということを実感した。

 

バスにのって芦ノ湖へ向かった。このバスは、とても酔うことで家族、友人の間で有名だった。なので、乗った瞬間にイヤホンをして絶対に目を開けなかった。かなりの遠心力を感じたときもあったが、降りるまで目を開けなかった。そうしたらあっという間に終点についた。これからはこのバスも利用できそうだ。

 

バスをおりて、まずは何か食べようということになった。

おりて左手に蕎麦屋があったのでそこに入る。雨は箱根湯本についた時点でずっと降っている。ビニール傘を店の入り口において向かい合う席に座った。せいろを食べた。

 

それから箱根神社へ向かった。御朱印をいただく長い列があった。並びながら左にある池をみていた。鯉が泳いでいた。源実朝が詠んだ句もあった。椿が雨に濡れて綺麗だった。

 

御朱印をいただいてから、階段を上って九頭龍神社へ向かった。朱く荘厳な雰囲気だった。マルとチビのことをお祈り申し上げた。終始心地がよかった。とても安心する場所だった。

 

階段を下りると、湖に面した大きな鳥居があった。そこの真ん中で写真を撮るための長い列があった。これには並ばず、そのまま階段を下りて湖に沿って歩いていた。緑がどれも目に優しい。往き来する大きな船をみた。写真を撮ろうとしたが、カメラにはうまく写らなかった。

 

何か甘いものが食べたいと思って入った店は予想以上に額が高くてやめた。これからロープウェイにものるので、強羅あたりでまた何か食べようということになった。

 

海賊船のチケットをかう。出航まで30分あった。売店で抹茶とバニラのミックスソフトとホットドッグを頼む。ホットドッグは親が食べた。外国からの旅行客もやはり多かった。そうこうしていると時間になった。階段を上ってデッキの方へ行く。先ほど見た、湖沿いの鳥居をそこから写真に撮る。すると船が一回転を始めた。進行方向の先頭側へ位置を移してしばらく風に当たりながら景色を見ていた。ベンチに座って右をみると大きな洋館と広々した庭がある。こういう家に憧れるといったら、親に笑われた。

 

桃源台駅について、エスカレーターにのってチケットを買いに行く。するとすぐにロープウェイがきた。本数が多い。乗る瞬間は、どこか夢の国を思い出した。動き出す。どんどんのぼっていく。後ろに芦ノ湖がみえる。アナウンスが流れたと思ったら途端にとまって室内はとても静かだった。大涌谷駅についたので下車する。硫黄の匂いがすごかった。写真を撮って近くのお土産をうる建物にはいって何も買わずに出てまたすぐに早雲山へむかうロープウェイへのった。そこからはロープウェイも下る。霧がすごくて四方真っ白だった。しばらくして着いてそこからケーブルカーにのる。それまで少し待った。ケーブルカーは臨時運転をしているようで強羅までとまることなく進んだ。このケーブルカーは重くなると電気を使わずに走ることができるのだと車掌が言った。躑躅が綺麗だった。

強羅について、いつもいくお土産屋へ向かった。定休日だったようで休みだった。少し笑って並びのお土産屋へ入った。そこで猫の絵がはいった布を買う。何か食べようと思ったが見当たらず、とりあえず湯本へ行ってしまおうということになった。

強羅で登山鉄道を待っていると、アナウンスがきこえた。ロープウェイが運行停止したというものだった。結構ギリギリだったので先にここまできてしまって良かったねという会話をした。

 

そこから湯本まで爆睡した。気づいたら終点に着いていた。

この時点で既に6時を回っている。直前まで泊まるか悩んだが、結局帰ることにしたので帰りの最終のロマンスカーのチケットを買った。

流石にここまできたので温泉に入ってから帰ることにした。

いつもいく温泉へ向かう。そして定食をたべて温泉へはいった。温泉に入った瞬間、疲れがどっと溶け出すように体が気持ち良かった。

露天風呂にいって雨にあたりながら暫く山をみていた。

親もしばらく目を閉じてお湯に浸かっていた。

この瞬間はとても幸せな時間なんだと思った。

この日々も永遠ではない。

あの黒い空から降ってくる雨、温泉のあたたかさ、聞こえる音、全部を忘れないように、忘れないようにと思った。

 

帰りは駅まで歩いた。丁度良い時間でスムーズにロマンスカーにのって家に向かった。

 

家につくと令和まであと十分のところだった。

テレビをつけるとカウントダウンが始まる。

5秒前から動画をとり、令和になった瞬間に親と挨拶をした。

早々に同じ蒲鉾をたべた。箱根で買ってきたものだ。

そこから友人ともくだらないラインをして、寝た。

 

また行きたい。

色々とがんばろうと思った。

 

 

2019/04/25

 

家族以外でいうならば、趣味で繋がる人間関係が一番気楽だと思った。

 

その趣味をたのしむ内は純粋にたのしいから。

 

歳を重ねるとそういうことも少なくなってきた。それぞれの立場ができあがっていくわけだから身分としてのマウントやそういったものが浮き彫りになるのは自然なことだと思う。

 

自分も自分で身の内をかためないといけないわけだがいまいち尻込みをしてしまうのは、趣味に生きる生活がたのしいからで、両立が一番良いのだろうが刺すような毎日を趣味のたのしさで埋めあわせてしまいたい衝動がつよい。

 

今日は何をしたか、という記録をのこそうとしても仕事のことだと特に書くこともない。

 

仕事ではとうとう新たな分野をふられるようになった。こうなったのも辞めていったあいつのせいだしあいつのせいだ。冗談じゃない、こうなるのが早すぎる、その分野の業務はあなたの立場でやるのと自分の立場でやるのは全然違うわけだから、それを自分がやるとなるとだいぶやりにくい。

 

周りの目がくろいうちに、やっぱり抜け出さねばと思う。

 

 

 

 

 

2019/04/23

 

とうとうこうなった。

 

だから嫌だというのに。だから人が辞めていくんだろうに。

ダブルチェックのシステムがあるならまだしもそれもなく特に指示があるわけでもない。いきなりふられたってそもそも何で自分?

 

前の職場を思い出してやるしかない。

他の転職者はそうしているし、それができない人は早々にみんな辞めていく。

人が次々と辞めていくのでとうとう火の手がこちらまでまわってきた。それにしても少しはやくはないか?せめてあと六ヶ月後であれば、色々含めてちょうど良い塩梅なのに。

 

自主性は大事だと思う。自分で考える力。

でも引き出しがない人間にいくら後から正解を言ったって無理に決まっているのにそれで人がどんどん辞めてるのにあくまで姿勢は変えないのだなと。

書類も一つの書類について決まりごとが多すぎる。所在地の書く書かないなんて一つの決まりごとで十分だと思う。

前の職場を思い出せば平気。この感情も経験してる。

別にどうでもいいんだけど、ふられたらやるしかないしそこは別にもういいけども、せめてダブルチェックはしてほしい。

こう苛々していると頭も凝り固まってくる。

良くない。

どうでもいい、どうでもいい。

もっと気楽でいい。

早く本を読もう。

2019/04/23

 

精神的に不安定。

 

失敗した体験が常に脳内にフラッシュバック。不快を覚えた会話の内容も何回も繰り返され、相手への怒りは忘れるどころか強まり深くなる一方。常に疲れている。体を動かしていないのに疲れるから余計に体を動かさなければよいと思った。

 

単に感情的なだけかと思っていたし、冒頭に書いたことはこれまで当たり前のことだと思っていたが、顕著になったきて苦しくなってきた。

 

絶対的な成功体験の少なさ。辛かった過去を上塗りにしようとして実力や生活を見ずに高い目標だけをたてた。実力や生活に見合った目標をたててそれを遂行する。

 

糖分には抑うつを一時的に抑える働きがあるという。治すでもなく、あくまで抑えているだけなので、効果が切れるとまた糖分を求める。結果、体重の増加がおこる。

 

適度な運動をしなければ、筋力は更に衰え、内臓器官の働きも衰え、結果、体の冷えや感情のコントロール、浮腫など様々な支障をきたす。

 

ストレスを解消すること。抑うつ感がおさまれば、趣味にもより没頭できる気がする。

 

他人のことなんか気にするな、と言った人がいた。

相手の顔色を伺うのがある意味自分のなかでは得意分野だ。実際仕事ではほぼそれだけで何とか乗り越えてきている。この感覚はこれからも必要。だけど常に過敏だと流石に病む。

そういったスイッチはオフにすることも必要だときいた。

友人と会っていたとき、当時は距離感のない関係が一番だと勘違いしていた。中にはそういった人達もいるかもしれないが、自分は仲が良くても距離感をもって相手を受け入れながら接していきたい。冗談でも、昔みたいにキツイ冗談はもう言いたくない。

だからある意味友人とあっているときも勿論スイッチはいれておく。

じゃあいつ?

他人とあわないときに切ればいい?

 

考えがゼロか百。この傾向が顕著というのも一種の病気の可能性もあるようだ。でも自分はもうこの意識は根本的には変えられない。でも、勝手に味方だと思ってでれでれ接していたと思ったら突然、敵だと思って攻撃的になるのはやはりどこかアレだとは流石に思う。これも過去の話。そんなことがあったし、してしまった。もうしないようにしている。

 

生活がうまくいっているときは自分がつくりあげたこの性格がとても絶妙で誇らしいとすら思うときがある。一転、生活が不穏になるとこの性格が重くのしかかって一人でいるときにはコントロールできなくて寝るしか無くなる。

 

過眠も体の機能を結局衰えさせて抑うつ感を引き起こす要因にもなるそうだ。

 

自分の外見を街中の鏡で見て昨日は辛くなった。ぱつんぱつんの顔、体。何をするにも嫌になった。そして過去に言われたこと、他人の容姿を無意識に考え続け、苛々していた。

 

 

ここまでずらずらと書いてきたことが大体の自分のここ数年のテーマ。何かを成し遂げた感覚もなく、停滞という言葉が似合った時期。

 

社会に出てから、外見はとても大事だとつくづく思った。自分は外見が良くない方の人間なんだと思い知った。嫌という程。

外見が醜いとろくなことがない。まず舐められる。顔見知り、異性、外出先においてまずは舐められる。どの場面でもそうだった。

 

痩せる。外見を見直す。人間関係でストレスがたまりにくくなる。

糖分を控える。食事量をおさえる。抑うつ感や浮腫もなくなり体重もおとせる。

適度な運動をしてあせを流す。自律神経をととのえて内臓機能を向上、抑うつ感を抑える。

身の丈に見合った目標をたてて、必要な努力をして遂行する。成功体験をつくること。卑屈な考えもすこしは抑えられそう。

趣味を持ち続ける。感性を豊かにしておかないと心がしんでいく。

今の他人に対する感覚を持ちながら、一人の時はその感覚を意識的に切る。反省ができるきっかけなもなるが1日に絶対に感覚を切る時間を持つ。他人のことなんか気にするな。

 

日常の些細なことから何でも否定から入ってくる人がいた。そんな人のことなんかどうでもいい。忘れてしまえ。

 

 

こんなに長く中身のないことを書いて、昔から思っていることがある。自分はどこか気質があるということ。それは精神的な何か。

病院にいけば何かしらの病名がついて薬が処方されるのだとおもう。気分をおちつかせる薬だとか脳の働きを活発にする薬だとか。

でも、まだ何とかしたいという気持ちがあることはある。目標のハードルを下げて下げて、下げてでもどうにかしたいという気持ちはやはりまだあるようだ。

 

ここまで一気にかいて、やっと気分がすこし落ち着いた。少し寝る。

 

 

 

 

2019/04/22

 

マルと遊んだ。

 

そこには猫もいた。自分は家の窓際に布団で寝ているようで、よく晴れた日中のことだった。マルは大きくはっきりとした瞳で自分を見ていた。自分はマルをずっと撫でていた。おなかのところがふっくらとしていて暖かかった。その様子が相変わらず可愛くて写真を撮った。撫でながら「あぁ、やっぱり本当に好きだなぁ」とぼんやり思った。元気に歩き回ったり跳んだりしていたのでリードをつけた。よくつけていた虹色のリード。そしていつものようにマルを抱き抱えてリビングで寝ている親の元へ行ってこう言った。

「あの川へ散歩をしに行こう。」

 

マルがとても元気なので自分は親に尋ねた。

「マルくんは、いつだっけ?」

親はこう答えた。

「7日の水曜日だよ。」

カレンダーをしっかりと見た。確かに水曜日だった。

マルを抱き抱えながら、こんなに元気なんだからもしかしたら水曜日もこうなんじゃないか?と思った。そしたらあの場所に行かなくて良いのではないか?とも思った。

自分があの漫画の忍者だったならば。

確か生き返らせる方法があったはずだ。。。

いや、それは違う。転生なら良いが、連れ戻して生き返らせるのは違う。それは執着で、マルの足を引っ張ってしまう気持ちだ。

自分はマルのために祈ること。これからもずっと祈ること、マルが更なるたかいところへ穏やかにいるよう、祈ること。

 

そこで目が覚めた。

暗くて静かだった。カーテンからは外の光が漏れて天井へ青く差し込んでいる。

真横にあった携帯をみる。撮った写真も、勿論そのデータは無い。

夢だったんだ、と思った。そこでようやくわかった。

あまりにもリアルで、しばらく呆然としていた。

 

猫はいつもマルが夢に出てくると一緒にでてくる。一緒に行動をしているのだろうか。

夢の中で自分の布団が置いてあった位置はマルの布団があった位置だ。今もある。もっとも、マルはそこでも寝たし、人が寝るあのサイズの布団もよく使っていた。マル用として親の布団の隣に出していた。マルは教えてもいないのに、折りたたんだタオルの上に頭をのせ、ど真ん中に寝ていた。自分たちとまさに一緒。マルは最期、その布団で息を引き取った。

亡くなる前は目もうまく閉じれなくなっていた。自力で歩くこともできなかったし、身動きを取ることもできなかった。

亡くなった日もそれからもマルを撫でていた感覚を思い出す。マルはとても柔らかかった。おなかのあたりが、すこし冷えてはいて、少しおしてみるとその分へこんで、またもどった。

虹色のリードを買った時の心持ちもよく覚えている。その前は青いリードだった。それがボロボロになってきたので近所のホームセンターに行った。そこで一つ、虹色のリードを見つけた。今までは落ち着いた色だったので今度は明るい柄にしようと思った。あれは自分がまだ学生のときだった。

マルを抱き抱えたとき、心臓を圧迫しないように気をつけた。あの重みが夢の中でもリアルで、まただっこできたことがとても嬉しかった。

親の元へマルを連れて行ったとき、マルはぺったりと親の側へいった。親はマルを撫でる。見ていてとても微笑ましい気持ちだった。

夢の中では、どうやらマルが亡くなっていたことは理解していたようだ。

夢の中でカレンダーを見た。

七日の水曜日というのは、マルを火葬した日。

カレンダーをみたときに、二日後かと思った。

三月五日はマルが亡くなった日だ。

亡くなってとても悲しくて泣いていた。もしかしたらあの時、もう既に元気に歩くことができていて、六日に一緒に海やお寺やあの川へ行ったときも元気な姿で一緒にいたのかもしれない。

今日は、三月五日から数えて48日目。マルが亡くなったのは本当に零時頃だ。そうすると48日もしくは49日。

昨年の49日にはマルが紅色の大きな鳳凰になって羽ばたいた夢を見た。そしてこれまでそういった慣習や世界をあまり意識しなかった自分だったが、その夢を見て、一つ安心をしたのを覚えている。

あれから、一周忌にお坊さんにお経をあげていただいて塔婆をたててもらったり、一昨日もお経をあげていただいた。

マルくんが更に穏やかに暮らせるように、自分はこれからも祈り続ける。

遊びに来てくれてありがとう。

これからもずっと一緒。

ずっと愛しています。

ずっと一緒だよ。

2019/04/17

 

小学生の頃の夢をみた。

 

自分のなかで、小学生の頃といえば、いわゆるなんでも出来て思い通りになった楽しい日々。

勉強で困ることはなかったし、書道や絵をかけば賞に入るし誰とでも分け隔てなく話せた。

「あの子なら無理だけど、自分はできる」のが当然だったので、その自信が根拠がなくても常に自分のどこかにあるようになった。

その根強い自信で今日まで駆けてきた。

そして今日、あの頃の夢をみた。

自分が忘れ去っていた嫌な記憶。成功に上塗りされて見えなかった失敗。根拠ない自信のまま会話した時に拒絶されたこと。衝突。そのときの周りの動き。場所を変えれば勿論そんな盾は無いので、その場所ではあらゆる場面でボコボコに罵倒されてきた。

一気に思い出した。

自分が、たのしいことしかなかったと信じていた日々はそうでもなかったこと。

あのとき、そう思った場所で自分にあったのは、周りよりも上の学力。

それだけが唯一の盾だった。

中学、高校へとすすみ、学力の盾も次第に剥がれてくる。

根拠のない自信で、友人もいた。なんでも話せると思った。実際はそんなことはない。あのときはまだ学力がある方だったから、それで自然とああなったわけだ。あのときの友人も、いざ自分より上に立ったと自覚した瞬間に、みんな牙をむいて攻撃をしてくる。今の自分には盾がないからそういう攻撃を受けてしまう。

何故、社会人になっても勉強をできないながらも続けてきたのか、ようやくわかった。

盾が欲しかったんだ、自分には外見も人を惹きつける性格も飛び出た才能も何も無い。

せめて学力があれば、攻撃から身を守ることができる。攻撃をしてくる人間は年齢性別を問わない。

よく今まで記憶を改竄したままあのときの幻想を引き摺ってきたと思う。そりゃ、間違いだから、その幻想を元に人や物事と対面したって失敗するに決まっている。

決して自分の人格をみて、まともに会話をしてきた人はいなかった。

あのとき手放しにたのしんでいた日々は、学力によって守られていた日々だったんだ。

2019/04/16

 

どうせ一時の気分だ。

 

帰属意識というものなんて無い。忠誠心というものもこれといって特に無し。情だけでは動かないし、動けない。

 

今回の区切りは、今までの問題の根っこの部分とこれから先の生活に関わる大切な分岐点というのは絶対に間違いない。

だからこそ、やはり区切り方も相応にしておくべきなのだと思う。

結果は見えている。結果は見えている。

結果は見えているので、そういうことに関して可能性がないものは今まで手をつけなかった。

今回も結果は見えているが、今回ばかりは突撃するしかない。し、しておくべきだと思う。

これから先、今の日常は何度も何度も繰り返し思い起こすことになるのだろう。後悔とか自己嫌悪とか情けなさとか、そういったものをずっと背負って生活していくことになる。

自分のどうしようもない非をやっと認めて自覚したうえで身を引くのだから。

猛進して突撃して、後は知らない。

もうここまでやったんだ、ここまでやったんだからもういいんだ。と、そういう強烈な一区切りがここでも必要なんだ。

どうせあと三ヶ月も無い。

棒にふることは目に見えているが、もう一回、あのこと一色の生活をしてみよう。

本当に最後なんだから、あと先のためにもこれだけはしておこう。